2018年09月05日

写生俳句⑴

俳句づくりの耳にタコができるくらい聞かされる「主観・客観」のようです。しかも俳壇の流派や集団で言うことは異なるらしい。いやいや、私は「異なったらダメ」というスタンスに立たないが、誰もが句作していてどうして意思の疎通を図ろうとしないのかと想われて、私には不思議でならない。

芭蕉は江戸時代の人であれば現代の私たちとは観るも交わす言葉(= 表現)も異なるだろうし、だからと云って芭蕉の句は俳句でないと捉えるのは如何なものかと私には思われる。結局芭蕉の道の延長に子規があると捉えるのが私には自然に思われる。すなわち、芭蕉 ⇄ 写生 ⇄ 子規が私はいい。

そうするとこれに疑問視するプロの方は大勢いらっしゃるに違いない。この問題点は「芭蕉は写生したか、しなかったか」であれば、そこを検証すれば足るのですから(四の五の言わずに)私は私の都合のいい例句を引っ張りだすのみ。笑。それで幾つかを並べて比較・検討することにしたいと思う。

殆んどのプロの方はご存じの句だと思います。これ等は写生句か?そうでないか?それだけのことですから分りやすいでしょう?よろしければどなたでもご意見を賜りますれば有難くぞんじます。どなたにも異見が無ければ、私の説でOKと見なせるでしょう?差し支えなければよろしくどうぞ。 ( ´∀` )

❶古池や蛙飛こむ水のおと   芭蕉

❷閑さや岩にしみ入る蝉の声   芭蕉

❸下京や雪つむ上の夜の雨    凡兆(芭蕉)

❹柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  子規

❺落椿投げて暖炉の火の上に  虚子

❻去年今年貫く棒の如きもの  虚子



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2018年09月04日

詩へ高めたい自由律

尾崎放哉が嘆き叫んだ 咳をしても一人
放哉に山頭火が和した 
鴉啼いてわたしも一人

ここで私がイメージする自由律を述べておきたい。一人で完結しづらい自由律。嘆く放哉だけでは詩にならず、励ます山頭火だけでも詩になりにくいが、「鴉啼いて」は人間性を見ていて詩になっている。自由律は嘆き節あるいは傲慢節に陥る危険が高いし、詩でない禅問答のそもさんに陥りやすい。

いっぽう有季定型は起承転結とか序破急と言っていいストーリー性を具えやすい。殊に私が好きな俳句にはドラマがある。ドラマは悲劇でないほうがいい。達成感に満ちた作品ほど輝いて当然でしょう。
乳母車夏の怒濤によこむきに の句は何気ない日常の一コマだがドラマチックだろ?

日常の暮ししてる人を襲った怒濤
だよ。つまり事件に見舞われた。事件を悲劇に終らせちゃ悦べないだろ?激しいのを見舞われて大切な乳児か幼児か老母か‥とにかく何がなんでも護らなきゃいけない。ひっくり返ったら大変と必死に堪えて無事だった‥だけどほんとに危かった。

だから、放哉ののほうは絶望的で、山頭火のには希望が見える。自由律をクイズ「そもさん」レベルへ堕とすべきでない。の高みへと昇ったときには自由律も人間のモノになるのでなかろうか。そんな想いの私なのです。



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2018年09月03日

叫び‥山頭火

言葉遊び‥私が種田山頭火から受けるイメージだ。己の人生にやる気を失くして無責任に面白おかしく過したい人は多いだろうな。

手っとり早いのは?現実から目を反(そ)らし、目を瞑(つぶ)れば済む。目を瞑っても現実は気懸かりだからオチオチ寝てられない。それならばとに逃げる。だが酒だけで済まず、博打や遊興で時間つぶしする。博打も遊興も一人でできる筈なのに、一人遊びは詰らない、だから遊び相手(人間)を欲しい。つまり、他人に遊ばせて貰わなきゃ遊べないって人は多いんだ。しかも遊ばせてもらうには資金が必要だ。遊ぶ資金を無尽蔵にばら撒いたら一生を面白おかしく遊ばせてもらえる。だが現実的に不可能だ。

直前の記事で採りあげた尾崎放哉は詩作のイメージ。だが山頭火から詩作のイメージは伝わってこない。当然のことだが山頭火にも誰にも詩作の才能はある訳だが、詩作したいと想わなければ詩作しない仕様になっている人間なんだよ。「そもさん」「せっぱ」の禅問答は相手を打ち負かす言葉遊びだ。これだと金が無くても遊べる。山頭火の言葉遊びは禅問答と変わらない。そもさん‥さあどうだあ?せっぱ‥答えてやろう。結局、勝ち負け・優劣を競う遊びって訳だよ。一休さんは強かっただろ?

山頭火が発した「そもさん」の総数は80,000とも言われているのでないかな。そもさんでは目的がそもそも違う。詩は人間万歳の心だ、幸せになろうの心だ。あなたが私と同じ視点に立ってないからと云って、それを咎めることは誰にもできない。自由な心を持てる人間なんだ。ただ、自分勝手をして構わない訳じゃない。人間の尊厳を保障する自由は良いが、人間の尊厳を傷つける勝手は決して許されない。大事なことですから、念のためにここで述べておきますね。それでは少しやってみますね。


(山頭火そもさん)

へうへうとして水を味ふ

わしらのような爺婆も水なら味わえるんだよね。
その心は?ご自由にお考えになってくださいね。

こころすなほに御飯がふいた

正直に生きることを仏は教えるが、そんなの馬鹿馬鹿しい。
山頭火は破戒僧かい? 禅宗の正式の僧侶だろ? ご飯を噴いたら噴飯もの

酔うてこほろぎと寝ていたよ

雪隠で酔いつぶれたのかい?汚い山頭火だなあ。
それにしても便所コオロギに罪はないよ。

生まれた家はあとかたもないほうたる

このそもさんを理解するには没落した山頭火の実家の事情に通じるに如(し)くはない。問題はほうたるだ。童歌「ほたるこい」の作詞者・三上留吉さんは1897年生れで、山頭火15歳の時です。山頭火がこの歌を知ってなかったとは断言しないが、知らなくても不思議じゃない。山頭火のこのそもさんほうたるの引掛け問題と見なすべきかも知れない。勿論、断言はしない。
それで私は‥生れた家はどっちなの?なんにもないほうにあるんだと素直に捉えておく。それにしても「そもさん✖せっぱ」遊びに俳句と名づけていけない法律はないけど、俳句そもさんのどっちも貶めているのを気にしないのかね。「叫び‥山頭火」はこの辺で置いておきますね。


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