2018年09月02日

詩形・詩心

このカテゴリーを「the talk」と命名した理由の一つは適当な日本語が思いつかなかったから。短詩・俳句は直ぐに思いついたが私のfeelingにしっくりこない。それで自分自身を解剖してみて感じるところがでてきた。私のなかのの意味が最近になって変わっている。ありゃりゃあってなもんです。これまでの私は詩形を守りたい想いが強かった。もちろん、他者には鷹揚ですよ。あくまでも私に関してです。

有季定型俳句、叙事詩、一行詩、短歌などなど、それぞれの流儀・流派を自由に観てた積りだが、自分自身は定型を越えるまいという想いが強くて窮屈だった気がする。制服は恰好いいけど窮屈だよね。昨今はその制服を脱いでも好いかって思う。言ってみれば「ありゃあ」は今の私には詩の積もり。つまり、詩の形式(≒間口)を広げた。もちろん、それが一般的でないのは百も承知。けど私はそれでいい。

詩人も人それぞれで感覚や考えかたは異なるから他人は他人だけど、詩で誰かが不幸になるならその詩は使命を間違えている。詩を「叫び」と捉えていい。「助けてぇー」と叫んだら誰かが応える。嬉しいと声を挙げたら「なになに?」と応える人がいる。そうすると私の詩はtalkなんだ。そんな場面が最近重なって私の詩観が目覚め始めたのかも知れない。そうなら嬉しいけど現実は難しいからね。

げかけられた言葉(≒)に全力で応える。そこが私の詩心の居場所。自分から詠んだ詩(≒句)の数は少ないが、誰かが詠んだ詩を心身で受けとめて答を返したい。その私のは既に詩(≒)になっていて、答句と呼ぶに相応しい。投句・問句・答句・闘句‥talkといった感じかな。そういった目線から次回は
尾崎放哉の何句かに答句していきたいと想っているところなんです。よろしければどぉ~ぞ。


abcd_tya at 14:12|PermalinkComments(0)‥the talk (恣) 

自己実現‥talk

自己実現に、との関係を重視するのは仏法者であれば当然で、これがイスラム教徒ならモハンマドとの関係重視となり、キリスト教徒ならキリストとの関係重視、共産主義者なら心酔する共産主義思想の中心(権威)との関係を重視することになる。卑近な例「座の文芸」でこれを考えていきたい。

仮にも俳壇のどこかの集団に加盟したら、その集団の権威との関係が重要となる。権威との関係が万全なら好い想いがデキるという計算をあなたはなさる。その大事な計算をミスるとどうなる?過ちがあなたの道を閉ざすときは悔いや恨みが発生しやすい。だから人は計算ミスを恐れることになる。

順調でない空気は心地よくない。鬱陶しい門下を師匠(権威)は疎んじたり、門下のほうも己が傷つくのは嫌だから、少しでも気が利く弟子なら普段から袂(たもと)を分かつ心の準備ができている。権威に冷遇されている事実を受入れられず叱咤激励と思いちがいして耐えて頑張って悲劇をみる人は多い。

非個人的関係を好しとする立場は己が掛けた梯子(はしご)を取払うことに痛みを感じずに済むとしても、その姿勢を好しとするならそこに近づいたそもそもの意図から疑わなければならない。己の安全第一を図って当然だが、そのような危険な者を‥そもそも梯子に近づけてはなるまい。

炎天の梯子昏きにかつぎ入る  橋本多佳子
梯子が熱くては昇り降りがツライよね、この心づかいに私の心は打たれるのです。

卑近な例を挙げれば、泳げない者が助けにいって溺れている人にしがみ付いては万一の助かる見込みも失くなるかも知れないではないか。私たちは能力のない者の出番はないと知るべきだ。人に役立ちたければ、他者を助けたければ‥己の能力に見合った場面を知る普段からの心構えが欠かせない。

自己実現を他者の犠牲のうえに図ってはならない。「半分、青い。」の鈴愛の口は羽より軽いがそれはtalkの価値を最大限に引出すために必要な作業なんだ。talkで引出された価値は喋り手と聴き手の双方の成長につながるだけでなく、社会の(人々の)安全保障に役立つことを私たちは知るべきだ。

talkを無駄と思えば寡黙(かもく)になる、そこから疑心暗鬼という邪心・魔物が蠢動(しゅんどう)し始める。「talkを嫌う者は己の意向を一方的に押しつける危険で邪智な存在かも」と疑うべきだ。詩心はtalkを善しとする。誰もがtalkの価値を知って自己実現を成しとげる社会・集団が善い。私はそう思う。


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2018年09月01日

山ってなんだろうね?

谺して山ほととぎすほしいまま  杉田久女

この句、私は取りあえず「
谺して/山/ほととぎす/ほしいまま」とえた‥文章をこのまま続けるのも好いが、その前に幾つか他も当たりたい。


  ㋑分け入っても 分け入っても 青い山    種田山頭火
  ㋺何かしら児等は山から木の実見つけてくる  尾崎放哉
  ㋩麦刈が立ちて遠山恋ひにけり    橋本多佳子
  ㊁谺して山ほととぎすほしいまま  杉田久女


私は意図的にこれ等の四句を並べたけど、どの句も「山」が詠われる。それ以外にも幾つかの私の意図をお感じになるかも知れませんね。ご存知のとおり、㋑㋺は自由律と呼ばれ、㋩㊁は有季定型です。写生の点では四句に共通する。4者ともに写生し発表しても、写生の角度が異なるゆえに作品に個性が表れる。個性を言えば限(きり)なく‥そのうえで私は㋑㋺㋩㊁のそれぞれに共通点を感じる。

短歌を分けて二人で詠む歌遊びに連歌がある。簡単に云うと、五・七・五七・七を数人が交互に詠んでいってその連続が「連歌」と呼ばれる遊び。だから無限に続けられる理屈の連歌。連歌の心は‥仲よく和やかに遊ぶものですし、つぎの人に繋がりやすいほうが好いでしょう? (この千代に八千代に続けたい人々の想いが窺がえる連歌。私はそう捉えています。細石の岩となりて苔‥の心。

この四句を受けて「さて、どう続けようか‥」だよね。迷わないようにと気遣う心は、ある程度の方向性を示してあげるでしょう?「どうだ、俺のほうが上だ、お前のは詰らん」‥でいい?
遊びならでは競いも許されるが現実にはダメ。母親なら我が子に仲よく遊ばせたいでしょう?子供が放った言葉に目くじら立てて怒る親はダメでしょう?師匠が親なら、弟子は子。私はそう思う。あなたはどう?

種田山頭火と尾崎放哉はともに荻原井泉水の弟子。井泉水は禅宗の僧を目指したようで、それでか山頭火は禅僧となり、放哉も禅寺の小坊主をやったようだ。禅問答の「そもさん、せっぱ」で有名な禅宗ですが、難問を好む傾向が強い男中心の禅寺で雲をつかむような禅問答が流行ったのは分る気がする。容易に答え難い質問・応答を好む、結果的に、権威を好みそうな人たちが自由律に入っていった‥。

分け入っても 分け入っても 青い山  種田山頭火

この句にオーム真理教を思い浮べる私なのです。オーム流儀では不幸へ向かう。私には幸福へ向かうしか有り得ない。つまり、二とおりの読み方がある。即ち私は、自由律を取巻く現実に無関心でいられない。成功して権威の仲間になれた人は滅多に悪さをしない。権威の仲間入りに悲観的になってオームへ入ればどうなった?東大卒でもオームへ入る。つまり、学歴・学力でカバーし切れないだろ?

権威の仲間入りした人はどう読むか?私のはどこまでも続く悩み知らずの人生‥となるだろ?この句を晩年の尾崎放哉が読んだら?私のはどこまでも続く嘆きの人生‥となる。勝者・強者には好くても、敗者・弱者を鬱(うつ)に追込む心配もしている私。もちろん、勝者の陰に敗者があり、勝者・強者に一番身近な家族の行く末も心配しなきゃならない私。あなたは、そんな負け犬は放っとけ‥ですか?

何かしら児等は山から木の実見つけてくる  尾崎放哉

これは順風なころの放哉の句のようです。順風なときの人は知らず知らずに鼻は上向きになり気分は高揚するのだろうな。子供というものは希望に満ち満ちて日々を送る。その児等が手に持っているものに悪いものはない。それが奈良公園に落ちている鹿の糞であっても子供は笑ってもてあそぶことを知っている。今朝の「チコちゃん」で子供はウンコ大好きって言ってた。放哉の眼にも希望が映ってる。

麦刈が立ちて遠山恋ひにけり  橋本多佳子

山を恋うている人が多佳子の眼に映ってるんだ。その山はきっと素敵なんだよ。放哉のは‥山は未知だけど児等は未知のなかにも希望を見出した。それなら山頭火の山は?バリアーでないか?弱者には出入りできない壁で、強者には余所者を入れない防犯の壁。権威と庶民を分断し、師匠と弟子を厳重に区別する壁。"help me" と、子が・弟子が叫んでいるときに私(=山)は谺して谺して谺し続けたい。

谺して山ほととぎすほしいまま  杉田久女

久女の呼びかけにしっかり応えられる私でありたい。私にはそのためにも詩心が欠かせない。世界中の母親は己の面子(めんつ)に構っていられないことを知っている。権威は丸つぶれになるかも知れないけれど、そんなモノよりも子を護ることが第一番に大事なこと。母親のあなたにはそれがお分かりだろ?私もそんな母を知っている。あなたは叫べなくても、お子は強く優しく育てたいよね。(´-`*)

谺して / 山ほととぎすほしいまま

谺しているわ。私のために山のホトトギスが世界の果てまで届けーって鳴いているのね。よしっ、私も頑張らなきゃあ。Thanks.(・。・)


abcd_tya at 09:52|PermalinkComments(0)‥the talk (恣)