叫び‥尾崎放哉⑶詩へ高めたい自由律

2018年09月03日

叫び‥山頭火

言葉遊び‥私が種田山頭火から受けるイメージだ。己の人生にやる気を失くして無責任に面白おかしく過したい人は多いだろうな。

手っとり早いのは?現実から目を反(そ)らし、目を瞑(つぶ)れば済む。目を瞑っても現実は気懸かりだからオチオチ寝てられない。それならばとに逃げる。だが酒だけで済まず、博打や遊興で時間つぶしする。博打も遊興も一人でできる筈なのに、一人遊びは詰らない、だから遊び相手(人間)を欲しい。つまり、他人に遊ばせて貰わなきゃ遊べないって人は多いんだ。しかも遊ばせてもらうには資金が必要だ。遊ぶ資金を無尽蔵にばら撒いたら一生を面白おかしく遊ばせてもらえる。だが現実的に不可能だ。

直前の記事で採りあげた尾崎放哉は詩作のイメージ。だが山頭火から詩作のイメージは伝わってこない。当然のことだが山頭火にも誰にも詩作の才能はある訳だが、詩作したいと想わなければ詩作しない仕様になっている人間なんだよ。「そもさん」「せっぱ」の禅問答は相手を打ち負かす言葉遊びだ。これだと金が無くても遊べる。山頭火の言葉遊びは禅問答と変わらない。そもさん‥さあどうだあ?せっぱ‥答えてやろう。結局、勝ち負け・優劣を競う遊びって訳だよ。一休さんは強かっただろ?

山頭火が発した「そもさん」の総数は80,000とも言われているのでないかな。そもさんでは目的がそもそも違う。詩は人間万歳の心だ、幸せになろうの心だ。あなたが私と同じ視点に立ってないからと云って、それを咎めることは誰にもできない。自由な心を持てる人間なんだ。ただ、自分勝手をして構わない訳じゃない。人間の尊厳を保障する自由は良いが、人間の尊厳を傷つける勝手は決して許されない。大事なことですから、念のためにここで述べておきますね。それでは少しやってみますね。


(山頭火そもさん)

へうへうとして水を味ふ

わしらのような爺婆も水なら味わえるんだよね。
その心は?ご自由にお考えになってくださいね。

こころすなほに御飯がふいた

正直に生きることを仏は教えるが、そんなの馬鹿馬鹿しい。
山頭火は破戒僧かい? 禅宗の正式の僧侶だろ? ご飯を噴いたら噴飯もの

酔うてこほろぎと寝ていたよ

雪隠で酔いつぶれたのかい?汚い山頭火だなあ。
それにしても便所コオロギに罪はないよ。

生まれた家はあとかたもないほうたる

このそもさんを理解するには没落した山頭火の実家の事情に通じるに如(し)くはない。問題はほうたるだ。童歌「ほたるこい」の作詞者・三上留吉さんは1897年生れで、山頭火15歳の時です。山頭火がこの歌を知ってなかったとは断言しないが、知らなくても不思議じゃない。山頭火のこのそもさんほうたるの引掛け問題と見なすべきかも知れない。勿論、断言はしない。
それで私は‥生れた家はどっちなの?なんにもないほうにあるんだと素直に捉えておく。それにしても「そもさん✖せっぱ」遊びに俳句と名づけていけない法律はないけど、俳句そもさんのどっちも貶めているのを気にしないのかね。「叫び‥山頭火」はこの辺で置いておきますね。


abcd_tya at 17:38│Comments(0)‥the talk (恣) 

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