星の王子さま

2018年08月30日

星の王子さま‥実践ⓛ

100分de名著‥夏休み第4回の最終講義は木ノ下裕一氏の解説に依る百人一首。氏は古典演目の木ノ下歌舞伎の主宰。いやいや、大変に面白かったし、ここでお伝えできたら良いけど難しいから止めておく。それで此処では感銘を受けた私の想いに沿って述べておきます。古典の和歌を詠むのは約束ごとに添わねばならないから私は敬遠しているが、その「百人一首」も読みかたは自由という発想はとても嬉しい。いっぺんで古典に親近感を持ってしまった。(念のためですが)自由勝手は全然異なります‥ね。

現代俳句は正岡子規に始まっているが、子規の弟子・高浜虚子が子規を丸々受継いでいる訳ではない。虚子の門下が虚子を丸々受継いでいる訳でもない。そのように俳句の流れは個々人の感性に委ねられていると言えそうです。但し、門下でいる限りはお習い事の慣習として師匠の価値観を踏襲しなければならず、それが厭なら「詩=俳句」の世界に入るか、流派を立上げて師匠に納まることになる。

正岡子規が写生俳句なら、高浜虚子は客観写生らしい。言葉が異なるときは意味も異なる訳で、俳句の流儀も異なる筈だ。俳号を師匠・山口誓子(1901~1994年)に付けて貰い秋元不死男(1901~1977年)にも同時に師事した鷹羽狩行氏は流派に囚われず、お習い事の俳句に囚われず、独自の見解をお持ちに見える。それだけに次の句からも窺えるように自由な作句・解釈も可能になっていると言えそうです。
    摩天楼より新緑がパセリほど  鷹羽狩行

俳句は詩に進化するほかない。そんなことを私が想えるのも木ノ下裕一氏に依る百人一首の解説のお陰のような気がする。8世紀ごろから13世紀ごろまでの和歌100首を詩的に読む木ノ下氏。と云うか、自由恋愛を詠えた時代。紫式部といい、清少納言といい、和泉式部といい‥優れた女性文化が著わされていた日本だった。百人一首には女性の歌人が21人も占めている。これ等のことは何を意味しているのだろうか?理屈っぽい男性と感性の旺盛な女性があって世界は旨く出来ていると云うことなのか?ハテ‥

女性の進出で世界は明るく好くなると思う。それで私は世界にどう係われば良い?世界はこれからどんどん変っていくだろうし、そのための準備を今から進めても早過ぎることはない。ともあれ、お世話になった今回の「100分de名著」も終えたようですし、感謝の気持を兼ねて私の想いを哲学的に述べて締めたい。私は世界を二分割して観るようにしている。言い方は「you & i」「あなたと私」「アチラとコチラ」等あるが、結局、私の想いどおりにならない世界と私の想いどおりになる世界の二つ。

私自身は私の想いどおりになるが、あなたは私の想いどおりにならない。私は主体であり、あなたは客体。私自身の他に私の想いどおりになるものは何もない。これで世界は完璧だってことがあなたにはお分りだろうか?、もっと言えば、私は私の想いどおりになるゆえに油断ならない。うっかりにでも怠けようと想おうものなら私は私の想いどおりに怠ける。だから大事な場面で阿呆なことを想う訳にいかない。つまり己でさえ油断ならないのに、客体のあなたを想いどおりに出来る筈がない。

私には客体のあなたであっても、あなたにとってのあなたは主体ですから、あなたはあなたの想いどおりになる。さらに私とあなたは傍から観るときは対等。対等な相手(あなた)に対して自分の言い分を通そうとするのは傲慢に過ぎるだろう。あなただけではない。ペットでも家畜でもプランターの野菜でも私の想いどおりにならない。仏も菩薩も守護神も私の想いどおりにならない。いやいや、あなたの神があなたの想いどおりにならないとは言ってませんよ。そんなことあなたの問題です。

私が嫁や子を好きなのは嫁や子が好かれたがっているからではない。好きになる訳はあるだろうけど、私は嫁や子を好きなのです。私は客体(≒環境)に感応するけど、感応したからといって好きになるとは限らない。草や木も主体的に生きているから私の想いどおりにならないし、それで私の家庭園芸も上手くいくと決っていないことに納得できる。こういったことで、先程の「それで私は世界にどう係われば良い?」という疑問への対応策が少しは見える気がする。イソップの北風と太陽の寓話に似る?

いやいや、ありがとうございました。ひとまず、これで締めておきますね。

abcd_tya at 20:09|PermalinkComments(0)

2018年08月29日

星の王子さま‥実践ⓚ

世界市民をもう少し続けますね。詩は世界市民の世界、だから権威の世界の俳句はお習い事。権威の世界の文芸はお習い事‥当然ですね?そうするととお習い事では目的が異なる。だけどそれに何か問題ある?ちっとも問題ないでしょう?お習い事はファッションに準じると言える。ブランド物を持ちたい人は持って楽しめば好いのです。好きなブランドも苦手なブランドもあるから、好きなのをセレクトして持って何か問題がありますか?問題なんか無いさァー。ブランド物には優越感まで備わるしぃ~。

それより問題は、お習い事の違いが分らないメディア意識の遅れにあるんだ。権威に揉み手で擦寄るメディアに質の向上は望めまい。「日系人フレッド・コレマツ氏」の記事でコレマツ氏はジャスティス(アメリカの法の正義)を守る戦いをしたと私は書いた。即ちコレマツ氏の主張は明確だった。それに対する者は長い物には巻かれろ、つまり権威(≒権力)崇拝だった。権威崇拝からは世界市民は生れない。正義を守ろうとする人の意識に世界市民の魂は育(はぐく)まれる。詩心普遍的な魂なんだ。

正義は人それぞれで異なるとでも、あなたはおっしゃいますか?ハムレットの“to be or not to be”のフレーズは色んな解釈が可能だ。「存在すべきか、それか消滅すべきか」が私は好いかな。(人は正義の実現のために)存在すべきか、それか、消滅すべきか?人の好みで存在・消滅が決まるとなると正義は実現するかと考えるに人間が係らない正義は実現しても、人間が係る正義の実現は難しい。宇宙への進出が間近に迫っているが、宇宙からの原爆攻撃を防げるか?地球に人類の居場所はないだろ?

人類みんなで相談したり協力して平和を構築すべきなのに、人類の消滅をOKとする思想を野放しにして正義は守られまい。どんな正義も有りだが、どの正義が人類のイチバンの利益なのか‥語り合わなければ人類は近い将来に絶滅するしかない。長い物には巻かれろって思ってる者に武器を握られたが最後、世界は地獄と化す宇宙時代。話合いは異質な感覚(の人)を受入れるところから始まる。どんな意見もあって、賛成も反対も批判も納得もあるだろう。大事なこと‥それは排除することではない。

権威の世界で異端分子は排除されても、詩の世界で排除は有り得ない。賛成もいい、反対もいい、批判もいい、納得もいい。大事なことは何のために?を語合う姿勢と場所が欠かせまい?排除(=消滅)は全ての人の願いを駄目にする。結局、世界市民を応援する意識に語り場は具わり・生れるのでないかな?幸い、最近のnhkも世界市民を育む方向で動いているようです。全ての大企業も世界市民を育む方向で動くに違いない。残すところは一人ひとりの意識を何でも語れるように目覚めさせる‥かな。

あなたは存在派でしょうか?それとも消滅派でしょうか?
そんなことを「走れメロス」に思い、「星の王子さま」に思うのです。


abcd_tya at 20:26|PermalinkComments(0)

星の王子さま‥実践ⓙ

千利休は茶室での対等をイメージし、私は文芸の座に対等をイメージする。対等がイメージされる俳人と云えば杉田久女。世界的には自由でいい文芸の世界だ。それであなたは世界市民ですか?自由に生き生き生きる魂‥即ち世界市民の躍動する魂に詩心は宿る。対等な座でなければ卑屈に平伏(ひれふ)す場(座)になる。対等であればこそお互いの作品を忌憚(きたん)なく批評できる。すなわち、宮沢賢治と権威を同列に並べてご自分の意見を述べる人は対等な文芸の座をイメージしていることも容易に分る。

対等をイメージしている末裔(まつえい)かどうか?あなたも、それぞれの文芸の座の面々を思い出してみられては如何ですか?宮沢賢治は素敵とか、太宰治は素晴らしいとか‥(あなたの)其処は本音で語れる世界か?それとも権威に気遣わねばならない世界か?言っておきますが、そこが権威の世界であっても一向に構わないと私は考える人です。但し権威の世界で素敵というのはオイシイって意味。素敵なは美味しいの分るよね?そこではお互いにお友だちは肉だってことも‥すでに書いたよ。

このように述べてきて想い起されるのが、太宰治が太田静子に述べた言葉。太宰治が太田静子の日記を剽窃したとか盗用したとか‥その言い分を理解できないではないが、もしかそれは早計でないのかと私には思われる。太宰は静子の斜陽日記を「君では売れない」と考えたに違いない。今の私もそのとおりと思う。私は詳しくないが当時の文壇の権威川端康成井伏鱒二‥他。座の文芸の上に出来た文壇であれば‥無名の、作家でもない太田静子が書いた日記で大ヒットは難しかろう‥と思う。

私は文壇の実状を知らないが、太宰治は川端康成にそういったイメージを持っていたように感じる。だから権威を動かす必要を感じ、川端への直訴を実行した太宰治だったのでないかな。文壇の権威を動かさなければ自分は腐るしかない‥。そうであれば権威を動かす目的から太田静子が有ってならないことを求められるかも‥。いやいや、最後のは私の妄想です。井伏鱒二の屁扱きイメージがどうも影響しているみたい。富士には月見草がよく似合う‥のアレです。アレはやっぱり月見草でなきゃあね。

abcd_tya at 17:26|PermalinkComments(0)

星の王子さま‥実践ⓘ

日本で座の文芸と云うのはご存じだろ? もっと言えば、杉田久女の句 虚子きらひかな女嫌ひの単帯。俳句と捉えるとき私的には秀逸にえる、それで座の文芸として捉えるときは如何だ?あなたはどうおいか?いは感性の世界だし、いは現実の世界だ。座の文芸の世界観は感性か?現実か?感性の世界でこそ杉田久女は愛されるキャラ、だが現実世界で久女は鬱陶しがられるキャラだ。鬱陶しがられるのを恐れなければならない世界を句に詠めば「物言えば唇寒し秋の風」となるのはお分りだろ?

私は宮沢賢治を読むとき感性の世界に入る。賢治の周囲の人たちが賢治はいいと唱える様は私以上の賢治愛好家に見えるが、彼等は現実の世界で唱えていると私には思われる。彼らの世界で好きに思うのは彼等の勝手だが、私の世界で好きに想うのは計算抜きの賢治の感性に浸りたい私の想い・私の感性なんだよ。宮沢賢治に対して反省できない思いは私にも分る。そんな思いはダメだって言ってないよ。ナザレのイエスを計算しなきゃ生きられない状況は分るし、座の文芸で計算必要悪とも思える

だからって、必要悪だからってイエスを売っていいものでなく、宮沢賢治を売っていいものでなく、太宰治を売っていいものではない。これは私の矜持(きょうじ)だから、あなたがそんなモノはどうでもいいってんなら私からあなたへ言うことはなく、すなわち、私が述べる対象はそんなあなたでないことは当然。馬鹿につける薬はない。だったら己の心身・身辺で結果を体験するほかない。己で蒔いた種子は己で刈りとるほかない世界の仕様(しよう)を味わうのも結構いいって‥私は知っている。😅

尤も、良いお味ですねって言えるあなたなら(馬鹿な)計算はしないロジックだな。
座の文芸の地盤の上に文壇・俳壇・画壇などの組織が出来ているとしたら‥あなたはどうする? こういった塩梅で次へ続ける予定ですけど、好ければ読んでくださいね。

abcd_tya at 10:35|PermalinkComments(0)

2018年08月28日

星の王子さま‥実践ⓖ

㋑メロス、㋺メロスの親友(石工)のセリヌンティウス、㋩シラクスの老人、㊁暴虐な王ディオニスの四者をあなたはどう捉えるか?その前に折角の鈴木梨央氏の役を設定しておきたい。㋭穢れを知らない乙女の役が「走れメロス」にある。最後の最後に登場して、メロスの裸体が満天下に曝されているのが悔しく惜しく、それで人々の眼から覆い隠した‥あの乙女。恥を知る乙女の役は鈴木梨央氏が好い‥太宰(の想い)。いやいや、太宰の想いとしたのは私の読みということ‥一言、断っておきますね。

だけど乙女はどうして「悔しく惜しく」感じたか?これは私の記憶ちがい?もしも私の記憶ちがいならその尻拭いを太宰治にさせるものでなく、責任は私の編集本「走れメロス」としておきます。こう述べてきた私のなかで思い浮かぶのが「斜陽日記」だ。「斜陽日記」は太田静子の著。私は「斜陽日記」を読んで面白く感じた。余計な知識が私のなかに入らないようにと「斜陽日記」だけを繰返し読んだ。その後で「斜陽」を読んだ。今は知らず、当時の世人は「斜陽日記」に無理解だったと記憶する。

「斜陽 斜陽日記」でgoogle検索なされば「斜陽」一辺倒だった世評が、今は「斜陽日記」に傾いてきている現実をお気づきになるだろう。しかし此処は暴君ディオニスの改心劇。現実は変えられるんだ‥という言葉は「100分de名著」に譲っておきたい。いやいや、現実は変わることをgoogle検索の結果は示している。だがこれで終れば願いごとの実現を夢みる妄想・戯言でしかなく、私は理想を実現させる哲学をしたい。ともあれ、乙女(鈴木梨央氏)は悔しく・惜しく感じてメロスを覆った。

清純なだけの乙女では満足しない私。太宰もそれはきっと私と同じだろう。清純なだけの乙女がメロス(=太宰治)を布で覆う理由が一人占めしたいからだなんて‥悔しく惜しく感じる必然性が私にはみえない。清純な乙女と、メロスを一人占めしたい乙女が被るとしたら、それだけの乙女なのだ。また太宰にしても己が一人の女の独占物になるだなんて‥思うだけでも鬱陶しいだろう。いつも誰かに恋してる太宰は1人の女に囚われ縛られることを嫌った。結局、悔しく惜しく感じる乙女が良い。

abcd_tya at 17:11|PermalinkComments(0)