走れメロス

2018年08月29日

星の王子さま‥実践ⓗ

太田静子の「斜陽日記」と太宰治の「斜陽」が存在しても日本に文芸誌や文芸評論家がいなければ話題にならない。私が知るかぎりは当時真剣に採りあげたプロは絶無だった。逆説的に云えば、彼(か)の件を真剣に語る者はプロの能力を疑われたと言えそうだ。プロが関わらないものをネタにするのは「プロ意識がないド素人」という説明でもあれば世間はウンウン頷(うなず)く。プロが誰も相手にしないのに、愚か者が訳の分らんことを言うとる。みんな、相手にすなよ。‥とまあ。こんな感じか。

それは私がPCを使い始めたころで世間は掲示板やブログの全盛時代へ入っていく。現yahooは全うと思われる記事を自由に発信できて日本の民間業者としては超一流だ。このことは民主主義的なトップの意識の目覚めを示しているが、当時の掲示板は「nhkの公共意識を問う」ごとき記事は即・削除となって私の記事も例外でなかったのを今は懐かしく想いだす。真面目な記事、真剣な記事を嫌う存在は現実に日本にある。しかも大概は双方が報復合戦を繰広げることしか思いつかず、日本の現状は重体だ。

今は「斜陽日記」を絶賛できる時代‥と多くの人が気づき始めている。宮沢賢治も同じだ。賢治は粗忽者だと権威が述べれば地元の知識人一同、「ヘヘーッ」と額づいて賢治は駄目なヤツだという風潮を広げてツイデに己も知識人の仲間入りを目論むレベルの低い輩(やから)は今も多い。賢治を粗忽者と思うのは好いがその根拠は「賢治の私的なメモ帳」への書込みを盗み読みしたモノだ。賢治のメモ帳は公式文書並みの正確性が要求されるべきか?しかるに地元は未だに反省なくて権威派尊重だろ?

こういった例は枚挙にいとまがないとあなたもお考えでないか?こういうくない空気を醸成する土壌の上に日本の文芸は成立っていると私は理解する、私と同じような考えの人は結構多いかも知れない。面白いことを指南役の若松英輔氏が述べておいでだ。太宰は言いたいこと全部を述べず、述べてない所に太宰の言いたいことは在る‥と。これは文芸手法として面白いと思うも、政治的手法と観るとき私はこれをどう評価すべきだろう?芭蕉の句に物言えば唇寒し秋の風とある。だが今は21世紀だぜ?

abcd_tya at 09:00|PermalinkComments(0)